好奇心は猫を殺すか?


第一回 ブレーンストーミング(前編)

 ブレーンストーミングという討論の手法がある。

 ちなみに洗脳のことを英語ではブレインウォッシュ(brainwash)というが、はじめこれを知ったとき「brain=脳、wash=洗、って直訳じゃないか」と思ったんだが、実はそうではなく、洗脳とはもともと中国で開発されたもので、その概念が英語に入ったときbrainwashの訳語が与えられたそうだ。つまりbrainwashのほうが英訳であり、英語の日本語訳だと思っていた私のほうが早とちりだった。しかしこの話は今回のお題と関係ない。

 さて、ブレーンストーミングとは会議やミーティングで使われる討論の一手法で、辞書的な説明をすると、「自由なアイデアで互いの発想を刺激する思考法」となる。
 「それじゃ雑談しているのと何が違うんだ」と言う人もいるかもしれないし、実際それはその通りで、もちろんブレーンストーミングにはちゃんとルールというものがあるが、ようは「雑談の中からいいアイデアが生まれるってことあるよね」という経験則があって、それをただの知識だけでなくどのように活用するかと考えて、よいアイデアが生まれる環境というものを毎回確実に再現させるために仰々しい名前がつかられているようなものだ。

 名前をつけるということは結構重要なことで、名前をつけることで始めて生まれるというものもある。例えば、天羅万象が出るより前にそういうロールプレイは存在しなかったかというとそうではないだろう。しかしそれは、一部の例外とか、「そういったやり方もあるけど」というような扱いをされてきたと思う。そんな中で天羅万象が世に出ることで始めて「天羅らしいロールプレイ」というものが認識できるようになったのだと思う。
 なんか「名前をつけることの重要性」ということと話がずれた気がしないでもないが、ようするに、在るものと見えるものと使えるものはそれぞれ別の問題ということだ。

 ブレーンストーミングとは言ってみれば雑談を技術にまで昇華していった手法であるが、ただの雑談をしていてもそれはブレーンストーミングとは呼ばれない。ブレーンストーミングには、ただの雑談で終わらせないための工夫があり、その工夫のゆえにブレーンストーミングと独自の命名がされている。
 ブレーンストーミングの主なルールは「出されたアイデアを批判しないこと」それと「質より量を重視すること」。よく知られたルールは他にも色々あるが、少なくとも私が重要だと考えているのはこの二点だ。細かいことを上げるとキリがないし、それ以上を知りたければインターネットなり書籍なりで調べてもらえばいいとして、実際、この話題に興味を持ったのなら他の場でも調べるようにしてほしい、ここで書いていることは必ずしも正確ではないので。このコラムは「こういうものの見方もある」ということを紹介するのがその趣旨であって、手法の内容を具体的に伝道することが本分ではないからだ。

 ブレーンストーミングの手法をもう少し突っ込んで話を続けていこう。
 例えば、ホワイトボードや何かを用意しておいて、出されたアイデアを書記が片っ端から書き留めていく、というやり方もある。もちろん誰某かまわず話している最中にすべて話を一人の人間が書き留めることは不可能で、そういうことも求められていない。とにかく全員が見える場所に書き留めておくということが重要なのだ。
 この方法は電子会議を持ち込むともう少しうまくいく。ネットワークに繋がれたパソコンが各席にあって、前面の大きなディスプレイにそれぞれのパソコンから打ち込まれた文章がダラダラと表示される、というわけだ。別にアイデアをリアルタイムで集計して整理する必要はない。雑然として並んでいてもよい。それこそチャットのようなシステムで十分だ。ひたすらアイデアを出すこと、その出されたアイデアについてさらに別のアイデアを出すことが重要なのだ、この場合。
 なにも電子会議のように金のかかったことをやる必要もなく、代わりにカードを使っても有効だ。各自手元に白紙のカードがあり、アイデアを書いて卓の中央に放り出す。卓の中央にはそのように放り出されたカードがアトランダムに置かれていて、それを眺めながらさらにアイデアを出していく。勘違いしないでほしいが、何も黙々とカードに書き込んでいく作業を続けるわけではなく、当然雑談も続けていく。カードはあくまでイメージの補助手段だ。
ブレーンストーミングの亜流にブレイン・ライディング法というドイツで開発された手法があって、それは「6人の参加者が3つのアイデアを5分ごとに考え出す」というもので、ミョーに数字にこだわったやり方のためか「6・3・5法」とも呼ばれるらしい。で、この数字には何か意味があるのかというと、実はそうでもないようで、ようは数字を定めてメリハリをつけることが大事何らしい。もっとも、少人数で、ある程度時間を区切って、ということはブレーンストーミングにもある要素だが。

 ドイツというのはどうも「堅実」というイメージがあるが、このブレインライティングが開発されたのがドイツというのもそのイメージを裏切っていない。
 以前に世界のドッキリTV番組を見る機会があって、まぁその世界のTV番組を紹介する番組は毎週やっているわけだが、ドイツのドッキリTVは妙にシナリオがしっかりしていて、だましネタを出す順序も工夫されており、最初は「ちょっと変なこと」から始まって、最後には「そんなことあるわけないじゃん」と思えるようなネタが出てくるんだが、実際だまされる立場で考えてみると、だまされてしまうのも仕方ないように思えるくらい怒らせ方やパニックさせるやりかたがしっかりしている。
 ドッキリTVというのは意外にその国の国民性を反映しているようにも思える。イギリスの場合は大掛かりな仕掛けで芸能人をだますというより、ちょっとしたアイデアやプロのマジシャンのトリックで通りすがりの人を驚かせるというタイプが多い。フランスの場合は、フランス語はオシャレだなぁーとか、それくらいしか思いつかんが、イタリアはラテンなノリなのかやたらテンションを勢いだけでごまかしているような気がする。
 イタリア的ノリといえば、NHKのイタリア語講座とスペイン語講座はなんでああもテンションが高いのか。それにくらべて日本語講座のニュースのような番組は何だ。それはともかく何で中国語講座で古畑任三郎のモノマネが出てくるのかがよく分からん。今はどうなってるかは知らないが。

 こんなことを言うのはかなり今さらだが、このコラムは、読んで直接TRPGに何か役に立つような代物ではない。読んでいれば分かるが、話がTRPGとまったく関係ない。
 例えば「TRPG入門」とか「GM講座」とか「TRPGとはかくあるべきだ」と主張する論評を書いたところで、他人に語れるほどの経験や理論があるとは思えないし、そもそもそういう読み物は巷にあふれていて、検索エンジンやTRPG系のリンク集で調べればケッコー面白いものがいろいろ見つかるし、そういう状況でそんなコラムを書いたところではっきしいって目立たないし、だからといってこんなコラムが目立つのかというと多分そうではないだろうし、なにも別に目立つために書き始めたわけでもないが。

 そんなことを思うので、それならば他の人があまり書きそうにないことを書きたいし、なにより自分が書きたいものを書いていきたいので、私がオリジナルシステムのことを色々と考えるときに心がけている、哲学やら他分野の理論やらを紹介してみようというのがこのコラムの趣旨。
 だからこれを読んでもTRPGには何の役にも立たないし、この内容を本当の意味で面白いと思える人は結構狭いだろうが、TRPGには役に立たない知識とはいえ、実社会で役に立たないかどうかは別問題、というよりむしろ使い方次第だろう。ブレーンストーミングというのは商品開発の企画会議などで実際に使われる、ビジネス的な手法なのだから。

(後編へ続く)
 

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